冷静だったのか(回顧その3)
救命治療での状況です。
救急車が病院に着いた。搬送中はなにも記憶がない。
とても短かったような記憶しかない。
救急隊の方が倒れた様子をみて左半身麻痺を疑って
症状から最適な搬送先をみつけてくださったのでしょう。
緊急車両なら10分かからないところだったと思います。
市中心部だったからよかったのかもしれない。
記憶に残っているのは、
救命の診察台に上げられたた瞬間ですかね。
よくドラマでみるやつ。
ストレッチャーから「せーの」とうつされるやつ。
「シャツ切りまーす」の声。
裸でオムツをはかされるのだそうです。
診断、処置のために仕方ないでしょうね。
あとで聞かされましたが、切られた服やポケットの中身、所持品などあとで渡されたそうです。
もし、このまま亡くなっていたら遺留品みたいなものになっちゃうのでしょうね。
また記憶はありません。どれくらい経ったのでしょうか。
次の記憶は、
どうも
「今からMRIを撮りにいきますねー」
の声に意識が呼び戻されたとき。
いざ、ストレッチャーに移され移動しようとするのですが、
「すみません。その前に、、、おしっこ。。。」
なぜ尿意を覚えたのか、これまずいと思ったのか
私の脳はなぜそう思ったのか。
「いいよ。そのまますれば」
移動しようとするストレッチャー脇で嫁さんの声がします。
連絡を受けて、車でかけつけたようです。
距離からいっても4-50分はかかるのでそれぐらいは経っていたのでしょう。
普段長距離を運転しないのに、よく冷静に来れたなぁと思います。
オムツをはかされる理由はここにあったみたいですね。
次の記憶といえば、
MRI室についてなのでしょうか
「金属類のもの外さないと」という医療スタッフの言葉に反応します。
麻痺になってる左手を差し出して
「ゆ、、ゆ、ゆびわ、、、、、」
なぜ耳に入ってきた言葉に反応したのか、しかもこの緊急事態に冷静に言葉を返しているのか。人間の脳は極限になった時に何かには反応するんですかね。
もちろん指輪も遺留品として引き渡され、退院後再会したときちょっと細かい作業が苦手な左手の薬指に今はつけています。
救命処置編の記憶はこれぐらいですかね。
脳出血を起こしたのに、開頭手術はしていないようです。
あとから家族に詳細聞くのも、フラッシュバックみたいに怖い思いをさせてしまうのはどうかと思い、自ら話してこない限り、今でも聞いていません。
きっと「あの時はねー」って笑って話せるときがくるのだと思います。
それはいつだろうか。社会復帰を試練を乗り越えたときかな。
発症後117日経過。もう少しかかりそうです。
今日はこの辺で。